鹿革を加工する技術は、西暦400年代に高麗より我が国へもたらされたと『日本書紀』にあります。
当時は紫草の根からとった染料や、あかねの根の汁で染めたりした鹿革に絵を描いたり、木版等で着彩をしていました。松ヤニなどをいぶしてその煙により着色した技法もありました。
鹿革を加工する技術は、西暦400年代に高麗より我が国へもたらされたと『日本書紀』にあります。
当時は紫草の根からとった染料や、あかねの根の汁で染めたりした鹿革に絵を描いたり、木版等で着彩をしていました。松ヤニなどをいぶしてその煙により着色した技法もありました。
西暦900年代に入ると武人が鹿革を甲胄に使用するようになり、文様もそれまでにない小桜、しょうぶ、菱などが用いられ、種類も多くなりました。
応仁の乱(1467年)以後、乱世を反映して革工は大いに栄えることになります。鹿革の軽さや丈夫さが重宝されたためです。1521年に誕生した武田信玄は、甲冑がすっぽり入る鹿革の袋を愛用し、それは「信玄袋」と呼ばれました。後に甲州印伝の礎となりました。
西暦900年代に入ると武人が鹿革を甲胄に使用するようになり、文様もそれまでにない小桜、しょうぶ、菱などが用いられ、種類も多くなりました。
応仁の乱(1467年)以後、乱世を反映して革工は大いに栄えることになります。鹿革の軽さや丈夫さが重宝されたためです。1521年に誕生した武田信玄は、甲冑がすっぽり入る鹿革の袋を愛用し、それは「信玄袋」と呼ばれました。後に甲州印伝の礎となりました。
1600年代には幕府に上納された渡来の品々の華麗な彩色に刺激され、これを国内で擬して造ったものを「いんであ革」と呼びました。これは、印度伝来を略した「いんでん」の語源となったともされています。諸大名は鞍で馬を飾り、自らも革袴や革足袋をもちいました。武士や町民も好んで巾着などの革製品を持つようになりました。
1600年代には幕府に上納された渡来の品々の華麗な彩色に刺激され、これを国内で擬して造ったものを「いんであ革」と呼びました。これは、印度伝来を略した「いんでん」の語源となったともされています。諸大名は鞍で馬を飾り、自らも革袴や革足袋をもちいました。武士や町民も好んで巾着などの革製品を持つようになりました。
1700年頃になると甲州の革工が革に漆を付け始めました、これは、松皮いんでん、地割いんでんとも言われ、革肌はきわめてなめらかなものでした。
また京都の革工が更紗風の印伝革を造って人気を得、このころの句に「印伝を明けて橘二分で買い」というのがあります。
1700年頃になると甲州の革工が革に漆を付け始めました、これは、松皮いんでん、地割いんでんとも言われ、革肌はきわめてなめらかなものでした。
また京都の革工が更紗風の印伝革を造って人気を得、このころの句に「印傳を 開けて橘 二つ買い」というのがあります。
その後、明治に入り、海外より輸入された多様な革製品が日本で使われるようになったため、印伝も時代に合わせ様々な形に姿を変えていきました。
1975年に県内数社で甲府印傳商工業協同組合を設立、1987年には甲州印伝は日本の伝統的工芸品として認定されました。
1996年には山本誠が甲州印伝 伝統工芸士(総合部門)の称号を取得し、2018年には現社長 山本裕輔が同称号を22年ぶりに取得。現在総合部門では国内唯一の伝統工芸士です。
印傳の山本では先人の仕事に敬意を払いつつ、新しい時代にあるべき甲州印伝の姿を日々探究しています。
その後、明治に入り、海外より輸入された多様な革製品が日本で使われるようになったため、印伝も時代に合わせ様々な形に姿を変えていきました。
1975年に県内数社で甲府印傳商工業協同組合を設立、1987年には甲州印伝は日本の伝統的工芸品として認定されました。
1996年には山本誠が甲州印伝 伝統工芸士(総合部門)の資格を取得し、2018年には現社長 山本裕輔が同資格を22年ぶりに取得。現在国内唯一の伝統工芸士(総合部門)です。
印傳の山本では先人の仕事に敬意を払いつつ、新しい時代にあるべき甲州印伝の姿を日々探究しています。